P--825 P--826 P--827 #1親鸞聖人御消息 親鸞聖人御消息 #21 (1) 有念無念事 来迎は 諸行往生にあり 自力の 行者なるかゆへに 臨終といふことは 諸行往生の ひとにいふへし  いまた 真実の信心を えさるかゆへなり また 十悪五逆の罪人の はしめて 善知識にあふて すゝめ らるゝときに いふことなり 真実信心の行人は 摂取不捨のゆへに 正定聚のくらゐに住す このゆへに 臨終まつことなし 来迎たのむことなし 信心のさたまるとき 往生またさたまるなり 来迎の儀則をまた す 正念といふは 本弘誓願の信楽 さたまるをいふなり この信心うるゆへに かならす 無上涅槃にい たるなり この信心を 一心といふ この一心を 金剛心といふ この金剛心を 大菩提心といふなり こ れすなはち 他力のなかの 他力なり 又正念といふにつきて 二あり 一には 定心の行人の正念 二に は 散心の行人の正念あるへし この二の正念は 他力のなかの 自力の正念なり 定散の善は 諸行往生 のことはに おさまるなり この善は 他力のなかの 自力の善なり この自力の行人は 来迎をまたすし ては 辺地胎生 懈慢界まても むまるへからす このゆへに 第十九の誓願に もろ〜の 善をして  P--828 浄土に廻向して 往生せんと ねかふ人の 臨終には われ現して むかへんと ちかひたまへり 臨終ま つことゝ 来迎往生と いふことは この定心散心の 行者の いふことなり 選択本願は 有念にあらす 無念にあらす 有念は すなはち 色形を おもふに つきて いふことなり 無念といふは かたちを  こゝろにかけす 色を こゝろに おもはすして 念もなきを いふなり これみな 聖道のをしへなり  聖道といふは すてに 仏に なりたまへる人の われらか こゝろを すゝめんか ために 仏心宗 真 言宗 法華宗 華厳宗 三論宗等の 大乗至極の教なり 仏心宗といふは この世に ひろまる 禅宗これ なり また法相宗 成実宗 倶舎宗等の権教 小乗等の教なり これみな 聖道門なり 権教といふは す なはち すてに 仏に なりたまへる 仏菩薩の かりに さま〜の 形をあらはして すゝめ たまふ かゆへに 権といふなり 浄土宗に また 有念あり 無念あり 有念は 散善義 無念は 定善義なり  浄土の 無念は 聖道の 無念にはにす またこれ 聖道の無念のなかに また有念あり よく〜 とふ へし 浄土宗のなかに 真あり 仮あり 真といふは 選択本願なり 仮といふは 定散二善なり 選択本 願は 浄土真宗なり 定散二善は 方便仮門なり 浄土真宗は 大乗のなかの至極なり 方便仮門のなかに また 大小権実の教あり 釈迦如来の 御善知識は 一百一十人なり 華厳経にみえたり 南無阿弥陀仏    建長三歳{辛亥}閏九月廿日 P--829                            愚禿親鸞{七十九歳} #22 (2) 方々よりの 御こゝろさしの ものとも かすのまゝに たしかに たまはり さふらふ 明教房の のほ られて さふらふこと ありかたき ことにさふらふ かた〜の 御こゝろさし まふしつくし かたく さふらふ 明法御房の 往生のこと おとろきまふすへきには あらねとも かへす〜 うれしく さふ らふ 鹿嶋 なめかた 奥郡 かやうの往生 ねかはせたまふ ひと〜の みなの 御よろこひにて さ ふらふ また ひらつかの 入道殿 御往生のこと きゝさふらふこそ かへす〜 まふすに かきりな く おほえさふらへ めてたさ まふしつくすへくも さふらはす をの〜みな 往生は一定と おほし めすへし さりなからも 往生を ねかはせたまふ ひと〜の 御中にも 御こゝろえぬ こともさふら ひき いまもさこそ 候らめと おほえさふらふ 京にも こゝろえすして やう〜に まとひあふて  さふらふめり くに〜にも おほく きこえさふらふ 法然聖人の 御弟子の なかにも われは ゆゝ しき 学生なとゝ おもひあひたる ひと〜も この世には みなやう〜に 法文を いひかへて 身 もまとひ ひとをも まとはして わつらひあふて さふらふめり 聖教の をしへをも みすしらぬ を の〜のやうに おはします ひと〜は 往生に さはりなしとはかり いふをきゝて あしさまに 御 こゝろえ あること おほくさふらひき いまも さこそ さふらふらめと おほえさふらふ 浄土の教も P--830 しらぬ 信見房なとか まふすことによりて ひかさまに いよ〜 なりあはせたまひ さふらふらんを きゝ候こそ あさましく さふらへ まつ をの〜の むかしは 弥陀の ちかひをもしらす 阿弥陀仏 をも まふさす おはしまし さふらひしか 釈迦弥陀の 御方便に もよほされて いま 弥陀のちかひ をも きゝはしめて おはします 身にて さふらふなり もとは 無明の酒に ゑひて 貪欲瞋恚愚痴の 三毒をのみ このみ めしあふて さふらひつるに 仏のちかひを きゝはしめしより 無明のゑひも や う〜 すこしつゝさめ 三毒をも すこしつゝ このますして 阿弥陀仏の くすりを つねに このみ めす 身となりて おはしましあふて さふらふそかし しかるになを ゑひも さめやらぬに かさねて ゑひをすゝめ 毒も きえやらぬに なを毒を すゝめられ さふらふらんこそ あさましく さふらへ  煩悩具足の 身なれはとて こゝろに まかせて 身にも すましき ことをもゆるし くちにも いふま しき ことをもゆるし こゝろにも おもふましき ことをも ゆるして いかにも こゝろのまゝにて  あるへしと まふしあふて さふらふらんこそ かへす〜 不便に おほえさふらへ ゑひも さめぬさ きに なをさけをすゝめ 毒も きえやらぬに いよ〜 毒をすゝめんかことし くすりあり 毒をこの めと さふらふらんことは あるへくも さふらはすとこそ おほえさふらふ 仏の御名をもきゝ 念仏を まふして ひさしくなりて おはしまさん ひと〜は 後世の あしきことを いとふしるし この身の あしきことをは いとひすてんと おほしめす しるしも さふらふへしとこそ おほえさふらへ はしめ P--831 て 仏のちかひを きゝはしむる ひと〜の わか身のわろく こゝろのわろきを おもひしりて この 身の やうにては なんそ 往生せんすると いふひとにこそ 煩悩具足したる 身なれは わかこゝろの 善悪をは さたせす むかへたまふそとは まふしさふらへ かくきゝてのち 仏を信せんと おもふこゝ ろ ふかくなりぬるには まことに この身をも いとひ 流転せんことをも かなしみて ふかく ちか ひをも信し 阿弥陀仏をも このみまふし なんとする ひとは もとも こゝろのまゝにて 悪事をも  ふるまひ なんとせしと おほしめしあはせ たまはゝこそ 世をいとふ しるしにても さふらはめ ま た 往生の 信心は 釈迦弥陀の 御すゝめによりて おこるとこそ みえて さふらへは さりとも ま ことのこゝろ おこらせ たまひなんには いかゝむかしの 御こゝろの まゝにては さふらふへき こ の御なかの ひと〜も 少々は あしきさまなる ことのきこえ さふらふめり 師をそしり 善知識を かろしめ 同行をも あなつりなんと しあはせ たまふよし きゝさふらふこそ あさましく さふらへ すてに 謗法のひとなり 五逆のひとなり なれむつふ へからす 浄土論と まふすふみには かやうの ひとは 仏法信する こゝろのなきより このこゝろは おこるなりと さふらふめり また 至誠心の  なかには かやうに 悪をこのまんには つゝしんて とをさかれ ちかつく へからすとこそ とかれて さふらへ 善知識 同行には したしみ ちかつけとこそ ときをかれてさふらへ 悪をこのむ ひとにも ちかつきなんと することは 浄土に まいりて のち 衆生利益に かへりてこそ さやうの 罪人にも P--832 したかひ ちかつくことは さふらへ それも わかはからひにはあらす 弥陀の ちかひによりて 御た すけにてこそ おもふさまの ふるまひも さふらはんすれ 当時は この身ともの やうにては いかゝ さふらふ へかるらんと おほえさふらふ よく〜 案せさせ たまふへく さふらふ 往生の 金剛心 の おこることは 仏の 御はからひより おこりて さふらへは 金剛心をとりて さふらはんひとは  よも 師をそしり 善知識を あなつりなんと することは さふらはしとこそ おほえさふらへ このふ みをもて かしま なめかた 南の荘 いつかたも これに こゝろさし おはしまさん ひとには おな し御こゝろに よみきかせ たまふへくさふらふ あなかしこ〜    建長四年二月廿四日 #23 (3) この明教房の のほられて 候こと まことに ありかたきことゝ おほえさふらふ 明法御房の 御往生 のことを まのあたり きゝさふらふも うれしくさふらふ ひと〜の 御こゝろさしも ありかたく  おほえさふらふ かた〜 このひと〜の のほり 不思議の ことにさふらふ このふみを たれ〜 にも おなしこゝろに よみきかせ たまふへく さふらふ このふみは 奥郡に おはします 同朋の御 中に みなおなしく 御覧さふらふへし あなかしこ〜 としころ 念仏して 往生ねかふ しるしには もとあしかりし わかこゝろをも おもひかへして とも P--833 同朋にも ねんころに こゝろの おはしまし あはゝこそ 世をいとふ しるしにても さふらはめとこ そ おほえさふらへ よく〜 御こゝろえ さふらふへし #24 (4) 御ふみ たひ〜 まいらせさふらひき 御覧せすや さふらひけん なにことよりも 明法御房の 往生 の 本意とけて おはしまし候こそ 常陸国うちの これに こゝろさし おはします ひと〜の 御た めに めてたき ことにてさふらへ 往生は ともかくも 凡夫の はからひにて すへきことにても さ ふらはす めてたき 智者も はからふへき ことにもさふらはす 大小の聖人たにも ともかくも はか らはて たゝ願力に まかせてこそ おはします ことにて さふらへ まして をの〜のやうに おは します ひと〜は たゝ このちかひ ありときゝ 南無阿弥陀仏に あひまいらせ たまふこそ あり かたく めてたく さふらふ 御果報にては さふらふなれ とかく はからはせ たまふこと ゆめ〜 さふらふへからす さきに くたしまいらせ さふらひし 唯信鈔 自力他力なんとの ふみにて 御覧さ ふらふへし それこそ この世にとりては よきひと〜にて おはします すてに 往生をもして おは します ひと〜にて さふらへは そのふみともに かゝれて さふらふには なにことも〜 すくへ くも さふらはす 法然聖人の 御をしへを よく〜御こゝろえたる ひと〜にて おはしますに さ ふらひき されはこそ 往生もめてたくして おはしましさふらへ おほかたは としころ 念仏まふし  P--834 あひたまふ ひと〜の なかにも ひとへに わかおもふさまなる ことをのみ まふし あはれて候  ひと〜も さふらひき いまも さそさふらふらんと おほえさふらふ 明法房なとの 往生して おは しますも もとは 不可思議の ひかことを おもひなんとしたる こゝろをも ひるかへし なんとして こそ さふらひしか われ往生 すへけれはとて すましき ことをもし おもふましき ことをも おも ひ いふましき ことをも いひなと することは あるへくも さふらはす 貪欲の煩悩に くるはされて 欲もおこり 瞋恚の煩悩に くるはされて ねたむへくもなき 因果をやふる こゝろもおこり 愚痴の煩 悩に まとはされて おもふましき ことなとも おこるにてこそ さふらへ めてたき 仏の御ちかひの あれはとて わさと すましき ことゝもをもし おもふましき ことゝもをも おもひなとせんは よく 〜この世の いとはしからす 身のわろきことを おもひしらぬにて さふらへは 念仏に こゝろさし もなく 仏の 御ちかひにも こゝろさしの おはしまさぬにて さふらへは 念仏せさせ たまふとも  その御こゝろさしにては 順次の往生も かたくや さふらふへからん よく〜 このよしを ひと〜 に きかせ まいらせさせ たまふへく さふらふ かやうにも まふすへくも さふらはねとも なにと なく この辺のことを 御こゝろに かけあはせたまふ ひと〜にて おはしましあひて さふらへは  かくもまふし さふらふなり この世の 念仏の義は やう〜に かはりあふて さふらふめれは とか く申に およはす さふらへとも 故聖人の 御をしへを よく〜 うけたまはりて おはします ひと P--835 〜は いまも もとのやうに かはらせ たまふこと さふらはす 世かくれなき ことなれは きかせ たまひ あふて候らん 浄土宗の義 みなかはりて おはしまし あふて候 ひと〜も 聖人の御弟子に て さふらへとも やう〜に 義をも いひかへなとして 身もまとひ ひとをも まとはかしあふて  さふらふめり あさましき ことにて さふらふなり 京にも おほく まとひあふて さふらふめり ゐ なかは さこそ さふらふらめと こゝろにくゝも さふらはす なにことも まふしつくし かたくさふ らふ また〜 まふし さふらふへし #25 (5) 善知識を をろかにおもひ 師を そしるものをは 謗法のものと まふすなり をやを そしるものをは 五逆のものと まふすなり 同座せされと さふらふなり されは 北の郡に さふらひし 善証房は を やをのり 善信を やう〜に そしりさふらひしかは ちかつき むつましく おもひさふらはて ちか つけす 候き 明法御房の 往生のことを きゝなから あとををろかに せんひと〜は その同朋にあ らす さふらふへし 無明の酒に ゑひたる人に いよ〜 ゑひをすゝめ 三毒を ひさしく このみく らふひとに いよいよ 毒をゆるして このめと まふしあふて さふらふらん 不便のことに さふらふ 無明の酒に ゑひたることを かなしみ 三毒を このみくふて いまた 毒もうせはてす 無明のゑひも いまた さめやらぬに おはしましあふて さふらふそかし よく〜 御こゝろえ さふらふへし P--836 #26 (6) かさまの 念仏者の うたかひ とわれたる事 それ 浄土真宗の こゝろは 往生の根機に 他力あり 自力あり このこと すてに 天竺の論家 浄土 の祖師の おほせられたる ことなり まつ 自力と 申ことは 行者の おの〜の 縁にしたかひて  余の仏号を 称念し 余の善根を 修行して わかみを たのみ わかはからひの こゝろをもて 身口意 の みたれこゝろを つくろい めてたう しなして 浄土へ 往生せむと おもふを 自力と 申なり  また 他力と 申ことは 弥陀如来の 御ちかひの中に 選択摂取したまへる 第十八の 念仏往生の 本 願を 信楽するを 他力と 申なり 如来の 御ちかひなれは 他力には 義なきを 義とすと 聖人の  おほせことにてありき 義といふことは はからうことはなり 行者の はからひは 自力なれは 義とい ふなり 他力は 本願を 信楽して 往生必定なるゆへに さらに 義なしとなり しかれは わかみの  わるけれは いかてか 如来 むかへたまはむと おもふへからす 凡夫は もとより 煩悩具足したるゆ へに わるきものと おもふへし また わかこゝろ よけれは 往生すへしと おもふへからす 自力の 御はからいにては 真実の報土へ むまるへからさるなり 行者の おの〜の 自力の信にては 懈慢辺 地の往生 胎生疑城の 浄土まてそ 往生せらるゝ ことにて あるへきとそ うけたまはりたりし 第十 八の本願 成就のゆへに 阿弥陀如来と ならせたまひて 不可思議の 利益 きわまり ましまさぬ 御 かたちを 天親菩薩は 尽十方無礙光如来と あらわしめたまへり このゆへに よきあしき人を きらは P--837 す 煩悩のこゝろを えらはす へたてすして 往生はかならす するなりと しるへしとなり しかれは 恵心院の和尚は 往生要集には 本願の念仏を 信楽する ありさまを あらわせるには 行住座臥を え らはす 時処諸縁を きらわすと おほせられたり 真実の信心を えたる人は 摂取のひかりに おさめ とられ まいらせたりと たしかに あらわせり しかれは 無明煩悩を 具して 安養浄土に 往生すれ は かならす すなわち 無上仏果に いたると 釈迦如来 ときたまへり しかるに 五濁悪世の われ ら 釈迦一仏の みことを 信受せむこと ありかたかるへしとて 十方恒沙の諸仏 証人と ならせたま ふと 善導和尚は 釈したまへり 釈迦弥陀 十方の諸仏 みなおなし 御こゝろにて 本願念仏の 衆生 には かけの かたちに そえるかことくして はなれたまはすと あかせり しかれは この信心の人を 釈迦如来は わかしたしき ともなりと よろこひまします この信心の人を 真の仏弟子といへり この 人を 正念に 住する人とす この人は 摂取して すてたまはされは 金剛心を えたる人と 申なり  この人を 上上人とも 好人とも 妙好人とも 最勝人とも 希有人とも まふすなり この人は 正定聚 の くらゐに さたまれるなりと しるへし しかれは 弥勒仏と ひとしき人と のたまへり これは  真実信心を えたるゆへに かならす 真実の報土に往生するなりと しるへし この信心を うることは 釈迦弥陀 十方諸仏の 御方便より たまはりたると しるへし しかれは 諸仏の 御おしえを そしる ことなし 余の善根を 行する人を そしることなし この念仏する人を にくみそしる人おも にくみそ P--838 しること あるへからす あわれみをなし かなしむこゝろを もつへしとこそ 聖人は おほせことあり しか あなかしこ〜 仏恩の ふかきことは 懈慢辺地に往生し 疑城胎宮に 往生するたにも 弥陀の 御ちかひのなかに 第十九 第廿の願の 御あわれみにてこそ 不可思議の たのしみに あふことにて  候へ 仏恩の ふかきこと そのきわもなし いかにいはんや 真実の報土へ 往生して 大涅槃の さと りを ひらかむこと 仏恩 よく〜 御安とも候へし これさらに 性信坊 親鸞か はからひ 申には あらす候 ゆめ〜    建長七歳乙卯十月三日                       愚禿親鸞八十三歳書之 #27 (7) 四月七日の 御ふみ 五月廿六日 たしかに〜 み候ぬ さては おほせられたる事 信の一念 行の一 念 ふたつなれとも 信をはなれたる 行もなし 行の一念を はなれたる 信の一念もなし そのゆへは 行と申は 本願の名号を ひとこゑ となえて わうしやうすと 申ことをきゝて ひとこゑをも となへ もしは 十念をもせんは 行なり この御ちかいを きゝて うたかふこゝろの すこしもなきを 信の一 念と 申せは 信と行と ふたつと きけとも 行を ひとこゑ するときゝて うたかはねは 行をはな れたる 信はなしと きゝて候 又 信はなれたる 行なしと おほしめすへし これみな みたの 御ち P--839 かいと 申ことを こゝろうへし 行と信とは 御ちかいを申なり あなかしこ〜 いのち候はゝ かならす〜 のほらせ 給へし    五月廿八日                      (花押)   覚信御房 御返事  専信坊京ちかくなられて候こそ たのもしうおほえ候へ 又御こゝろさしのせに三百文たしかに〜かし  こまりてたまはりて候  [「建長八歳{丙辰}五月廿八日親鸞聖人御返事」] #28 (8) この御ふみともの様 くはしくみさふらふ またさては慈信か法文の様ゆへに 常陸下野の人々 念仏まう させたまひさふらふことの としころうけたまはりたる様には みなかはりあふておはしますときこえさふ らふ かへす〜往生を一定とおほせられさふらふ人々 慈信とおなし様に そらことをみなさふらひける を としころふかくたのみまいらせてさふらひけること かへす〜あさましふさふらふ そのゆへは 往 生の信心とまうすことは 一念もうたかふことのさふらはぬをこそ 往生一定とはおもひてさふらへ 光明 寺の和尚の 信の様ををしへさせたまひさふらふには まことの信をさためられてのちには 弥陀のことく の仏 釈迦のことくの仏 そらにみち〜て 釈迦のをしへ 弥陀の本願はひかことなりとおほせらるとも P--840 一念もうたかひあるへからすとこそうけたまはりてさふらへは その様をこそとしころまうしてさふらふに 慈信ほとのものゝまうすことに 常陸下野の念仏者の みな御こゝろとものうかれてはては さしもたしか なる証文を ちからをつくしてかすあまたかきてまいらせてさふらへは それをみなすてあふておはしまし さふらふときこえさふらへは ともかくもまうすにをよはすさふらふ まつ慈信かまうしさふらふ法文の様 名目をもきかす いはんやならひたることもさふらはねは 慈信にひそかにをしふへき様もさふらはす ま たよるもひるも慈信一人に人にはかくして法文をしへたることさふらはす もしこのこと慈信にまうしなか ら そらことをもまうしかくして 人にもしらせすしてをしへたることさふらはゝ 三宝を本として三界の 諸天善神 四海の竜神八部 閻魔王界の神祇冥道の罰を親鸞か身にことことくかふりさふらふへし 自今已 後は慈信にをきては子の儀おもひきりてさふらふなり 世間のことにも 不可思議のそらことまうすかきり なきことともをまうしひろめてさふらへは 出世のみにあらす 世間のことにをきても をそろしきまうし ことともかすかきりなくさふらふなり なかにも この法文の様きゝさふらふに こゝろもをよはぬまうし ことにてさふらふ つや〜親鸞か身には きゝもせすならはぬことにてさふらふ かへす〜あさましふ こゝろうくさふらふ 弥陀の本願をすてまいらせてさふらふ ことに 人々のつきて 親鸞をもそらことまう したるものになしてさふらふ こゝろうく うたてきことにさふらふ おほかたは唯信抄 自力他力の文  後世ものかたりのきゝかき 一念多念の証文 唯信鈔の文意 一念多念の文意 これらを御覧しなから 慈 P--841 信か法文によりて おほくの念仏者達の弥陀の本願をすてまいらせあふてさふらふらんこと まうすはかり なくさふらへは かやうの御ふみとも これよりのちにはおほせらるへからすさふらふ また真宗のきゝか き 性信房のかゝせたまひたるは すこしもこれにまうしてさふらふ様にたかはすさふらへは うれしふさ ふらふ 真宗のきゝかき一帖はこれにとゝめをきてさふらふ また哀愍房とかやの いまたみもせすさふら ふ またふみ一度もまいらせたることもなし くによりもふみたひたることもなし 親鸞かふみをえたると まうしさふらふなるは おそろしきことなり この唯信鈔かきたる様あさましうさふらへは 火にやきさふ らふへし かへす〜こゝろうくさふらふ このふみを人々にもみせさせたまふへし あなかしこ〜    五月廿九日                       親鸞   性信房 御返事  なを〜よく〜念仏者達の信心は一定とさふらひしことは みな御そらことともにてさふらひけり こ  れほとに第十八の本願をすてまいらせあふてさふらふ人々の御ことはをたのみまいらせて としころさふ  らひけるこそ あさましうさふらふ このふみをかくさるへきことならねは よく〜人々にみせまうし  たまふへし #29 (9) おほせられたる事くはしくきゝてさふらう なによりは あいみむはうとかやとまふすなる人の 京よりふ P--842 みをえたるとかやとまふされさふらうなる 返々ふしきにさふらう いまたかたちおもみす ふみ一度もた まはりさふらはす これよりもまふすこともなきに 京よりふみをえたるとまふすなる あさましきことな り 又 慈信房のほふもんのやう みやうもくをたにもきかす しらぬことを 慈信一人に よる親鸞かお しえたるなりと 人に慈信房まふされてさふらうとて これにも常陸下野の人々は みなしむらむか そら ことをまふしたるよしをまふしあはれてさふらえは 今は父子のきはあるへからすさふらう 又 母のあま にもふしきのそらことをいひつけられたること まふすかきりなきこと あさましうさふらう みふの女房 の これえきたりてまふすこと ししむはうかたうたるふみとて もちてきたれるふみ これにおきてさふ らうめり 慈信房かふみとてこれにあり そのふみつや〜いろはぬことゆえに まゝはゝにいゐまとわさ れたるとかゝれたること ことにあさましきことなり よにありけるを まゝはゝのあまのいゐまとわせり といふこと あさましきそらことなり 又 この世に いかにしてありけりともしらぬことを みふのによ はうのもとえもふみのあること こゝろもおよはぬほとのそらこと こゝろうきことなりとなけきさふらう まことにかゝるそらことともをいひて 六波羅のへむ かまくらなむとに ひろうせられたること こゝろ うきことなり これらほとのそらことはこのよのことなれは いかてもあるへし それたにも そらことを いうこと うたてきなり いかにいはむや 往生極楽の大事をいひまとわして ひたちしもつけの念仏者を まとわし おやにそらことをいひつけたること こゝろうきことなり 第十八の本願をは しほめるはなに P--843 たとえて 人ことに みなすてまいらせたりときこゆること まことにはうほふのとか 又五逆のつみをこ のみて 人をそむしまとわさるゝこと かなしきことなり ことに破僧の罪とまふすつみは 五逆のその一 なり 親鸞にそらことをまふしつけたるは ちゝをころすなり 五逆のその一なり このことともつたえき くことあさましさまふすかきりなけれは いまはおやといふことあるへからす ことおもふことおもいきり たり 三宝神明にまふしきりおわりぬ かなしきことなり わかほうもんににすとて ひたちの念仏者みな まとわさむと このまるゝときくこそ こゝろうくさふらえ しむらむかおしえにて ひたちの念仏まふす 人々を そむせよと慈信房におしえたると かまくらまてきこえむこと あさまし〜        [同六月廿七日到来]    五月廿九日                       在判      建長八年六月廿七日註之     慈信房御返事       嘉元三年七月廿七日書写了 #210 (10) また 五説といふは よろつの経を とかれ候に 五種には すきす候なり 一には 仏説 二には 聖弟 子の説 三には 天仙の説 四には 鬼神の説 五には 変化の説といへり この五のなかに 仏説を も P--844 ちひて かみの四種を たのむへからす候 この三部経は 釈迦如来の 自説にて ましますと しるへし となり 四土といふは 一には 法身の土 二には 報身の土 三には 応身の土 四には 化土なり い まこの安楽浄土は 報土なり 三身といふは 一には法身 二には報身 三には応身なり いまこの弥陀如 来は 報身如来なり 三宝といふは 一には仏宝 二には法宝 三には僧宝なり いまこの浄土宗は 仏宝 なり 四乗といふは 一には仏乗 二には菩薩乗 三には縁覚乗 四には声聞乗なり いまこの浄土宗は  菩薩乗なり 二教といふは 一には頓教 二には 漸教なり いまこの教は 頓教なり 二蔵といふは 一 には菩薩蔵 二には声聞蔵なり いまこの教は 菩薩蔵なり 二道といふは 一には難行道 二には易行道 なり いまこの浄土宗は 易行道なり 二行といふは 一には正行 二には雑行なり いまこの浄土宗は  正行を 本とするなり 二超といふは 一には竪超 二には横超なり いまこの浄土宗は 横超なり 竪超 は 聖道自力なり 二縁といふは 一には無縁 二には有縁なり いまこの浄土は 有縁の教なり 二住と いふは 一には止住 二には不住なり いまこの浄土の教は 法滅百歳まて 住したまひて 有情を利益し たまふとなり 不住は 聖道諸善なり 諸善は みな竜宮へ かくれいり たまひぬるなり 思不思といふ は思議の法は 聖道八万四千の 諸善なり 不思といふは 浄土の教は 不可思議の教法なり これらは  加様にしるし まふしたり よくしれらんひとに たつね 申たまふへし また くはしくは このふみに て申へくも 候はす 目もみえす候 なにことも みなわすれて 候うへに ひとに あきらかに まふす P--845 へき 身にもあらす候 よく〜 浄土の学生に とひ申 たまふへし 穴賢々々    閏三月三日                      親鸞 #211 (11) 信心を えたるひとは かならす 正定聚の くらゐに 住するかゆへに 等正覚の 位と申なり 大無量 寿経には 摂取不捨の利益に さたまるものを 正定聚となつけ 無量寿如来会には 等正覚と ときたま へり その名こそ かはりたれとも 正定聚 等正覚は ひとつこゝろ ひとつくらゐなり 等正覚と ま ふすくらゐは 補処の弥勒と おなしくらゐなり 弥勒と おなしく このたひ 無上覚に いたるへきゆ へに 弥勒に おなしと ときたまへり さて 大経には 次如弥勒とは まふすなり 弥勒は すてに  仏に ちかくましませは 弥勒仏と 諸宗のならひは まふすなり しかれは 弥勒に おなしくらゐなれ は 正定聚の人は 如来と ひとしとも申なり 浄土の 真実信心の人は この身こそ あさましき 不浄 造悪の 身なれとも 心はすてに 如来と ひとしけれは 如来とひとしと まふすことも あるへしと  しらせたまへ 弥勒はすてに 無上覚に その心 さたまりて あるへきに ならせたまふによりて 三会 の あかつきと まふすなり 浄土真実のひとも このこゝろを こゝろうへきなり 光明寺の和尚の 般 舟讃には 信心のひとは その心 すてに つねに 浄土に居すと 釈したまへり 居すといふは 浄土に 信心のひとのこゝろ つねに ゐたりと いふこゝろなり これは 弥勒と おなしと いふことを まふ P--846 すなり これは 等正覚を 弥勒と おなしと 申によりて 信心のひとは 如来と ひとしと まふすこ ころなり    正嘉元年{丁巳}十月十日                親鸞    性信御房 #212 (12) これは 経の文なり 華厳経に言 信心歓喜者 与諸如来等といふは 信心よろこふひとは もろ〜の如 来と ひとしといふなり もろ〜の如来と ひとしといふは 信心をえて ことに よろこふひとは 釈 尊のみことには 見敬得大慶 則我善親友と ときたまへり また弥陀の 第十七の願には 十方世界 無 量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚と ちかひたまへり 願成就の文には よろつの仏に ほめられ  よろこひたまふと みえたり すこしも うたかふへきにあらす これは 如来と ひとしといふ 文とも あらはし しるすなり    正嘉元年{丁巳}十月十日                親鸞    真仏御房 #213 (13)   [畏申候] P--847   [〔大無量寿〕経に信心歓喜と候 〔華厳経を引て 浄土〕和讃にも 信心よろこふ其人を 如来とひとしと説きたまふ 大信   心は仏性なり 仏性即如来なりと 仰せられて 候に 専修の 人の中に ある人 心得 ちかえて 候やらん 信心よ   ろこふ人を 如来とひとしと 同行達ののたまふは 自力なり 真言に かたよりたりと 申候なる 人のうえを 可知   に 候はねとも 申候 また 真実信心うる人は 即定聚のかすに入る 不退の位に入りぬれは 必滅度をさとらしむと   候 滅度をさとらしむと候は 此度 此身の 終候はん時 真実信心の 行者の心 報土にいたり 候ひなは 寿命無量   を 体として 光明無量の徳用 はなれたまわされは 如来の心光に 一味なり 此故 大信心は仏性なり 仏性は即如   来なりと 仰せられて 候やらん 是は 十一 二 三の 御誓と 心得られ候 罪悪の 我等かために おこしたまえる   大悲の 御誓の 目出たく あわれに まします うれしさ こゝろも およはれす ことはも たえて 申 つくしか   たき事 かきりなく候 自無始曠劫 以来 過去遠々に 恒沙の諸仏の 出世の 所にて 大菩提心 おこすと いえ   とも 自力かなはす 二尊の御方便に もよをされ まいらせて 雑行雑修 自力疑心の おもひなし 無礙光如来の    摂取不捨の 御あわれみの故に 疑心なく よろこひ まいらせて 一念まての 往生定て 誓願不思議と 心得 候ひ   なむには 聞見候に あかぬ 浄土の聖教も 知識に あいまいらせんと おもはんことも 摂取不捨も 信も 念仏も   人のためと おほえられ候 今師主の 〔御〕教へのゆえ 心をぬきて 御こゝろむきを うかゝひ 候によりて 願意を   さとり 直道を もとめえて 正しき 真実報土に いたり候はんこと 此度 一念聞名に いたるまて うれしさ 御恩   の いたり其上 弥陀経義集に おろ〜 明に おほへられ候 然に 世間の そう〜にまきれて 一時 若は 二   時三時 おこたると いえとも 昼夜に わすれす 御あわれみを よろこふ 業力はかりにて 行住座臥に 時所の不 P--848   浄をも きらはす 一向に 金剛の信心 はかりにて 仏恩のふかさ 師主の恩徳の うれしさ 報謝のために たゝみ   なを となうる はかりにて 日の所作とせす 此様ひかさまにか 候らん 一期の大事 たゝ是に すきたるはなし    可然者 よく〜 こまかに 仰を 蒙り 候はんとて わつかに おもふはかりを 記して 申上候 さては 京に    久 候しに そう〜にのみ候て こゝろしつかに おほえす 候し事の なけかれ候て わさと いかにしても まか   りのほりて こゝろしつかに せめては 五日 御所に 候はやと ねかひ 候也 噫かうまて 申候も 御恩の ちか   らなり]   [進上 聖人の御所へ 連位御房申させ給へ]                            [慶信上(花押)]     [十月十日]   [追申上候]   [念仏申 候 人々の中に 南無阿弥陀仏と となへ候 ひまには 無礙光如来と となへまいらせ 候人も候 これをき   きて ある人の 申 候なる 南無阿弥陀仏と となへてのうへに くゐみやう尽十方無礙光如来と となへまいらせ    候ことは おそれある 事にてこそあれ いまめかわしくと 申候なる このやう いかゝ 候へき] 南無阿弥陀仏を となえてのうへに 無礙光仏と 申さむは あしき事なりと 候なるこそ きわまれる  御ひかことゝ きこえ候へ 帰命は 南無なり 無礙光仏は 光明なり 智慧なり この智慧は すなわち P--849 阿弥陀仏 阿弥陀仏の 御かたちを しらせ給はねは その御かたちを たしかに〜 しらせまいらせん とて 世親菩薩 御ちからを つくしてあらわし 給へるなり このほかのことはせう〜 もしを なを して まいらせ候なり   [この御ふみのやうくわしくまふしあけて候 すへてこの御ふみのやうたかはす候とおほせ候也 たゝし 一念するに往生   さたまりて誓願不思議とこゝろえ候とおほせ候おそ よきやうには候へとも 一念にとゝまるところあしく候とて 御ふ   みのそはに御自筆をもて あしく候よしをいれさせおはしまして候 蓮位にかくいれよとおほせをかふりて候へとも 御   自筆はつよき証拠におほしめされ候ぬとおほえ候あひた おりふし御かいひやうにて御わつらひにわたらせたまひ候へと   も まふして候也 またのほりて候し人々 くにゝ論しまふすとて あるいは弥勒とひとしとまふし候人々候よしをまふ   し候しかは しるしおほせられて候ふみの候 しるしてまいらせ候也 御覧あるへく候 また弥勒とひとしと候は 弥勒   は等覚の分なり これは因位の分なり これは十四 十五の月の円満したまふか すてに八日九日の月のいまた円満し   たまはぬほとをまふし候也 これは自力修行のやうなり われらは信心決定の凡夫くらゐ正定聚のくらゐなり これは因   位なり これ等覚の分なり かれは自力也 これは他力なり 自他のかわりこそ候へとも 因位のくらゐはひとしといふ   なり また弥勒の妙覚のさとりはおそく われらか滅度にいたることはとく候はむするなり かれは五十六億七千万歳の   あかつきを期し これはちくまくをへたつるほとなり かれは漸頓のなかの頓 これは頓のなかの頓なり 滅度といふは   妙覚なり 曇鸞の註にいはく 樹あり 好堅樹といふ この木 地のそこに百年わたかまりゐて おうるとき一日に百丈 P--850   おい候なるそ この木 地のそこに百年候は われらか娑婆世界に候て正定聚のくらゐに住する分なり 一日に百丈おい   候なるは 滅度にいたる分なり これにたとへて候也 これは他力のやうなり 松の生長するはとしことに寸をすきす    これはおそし 自力修行のやうなり また如来とひとしといふは 煩悩成就の凡夫 仏の心光にてらされまいらせて信心   歓喜す 信心歓喜するゆへに正定聚のかすに住す 信心といふは智也 この智は 他力の光明に摂取せられまいらせぬる   ゆへにうるところの智也 仏の光明も智也 かるかゆへにおなしといふなり おなしといふは 信心をひとしといふなり   歓喜地といふは 信心を歓喜するなり わか信心を歓喜するゆへにおなしといふなり くはしく御自筆にしるされて候を   かきうつしてまいらせ候 また南無阿弥陀仏とまふし また無礙光如来ととなへ候御不審も くわしく自筆に御消息のそ   はにあそはして候也 かるかゆへにそれよりの御ふみをまいらせ候 あるいは阿弥陀といひ あるいは無礙光とまふし    御名ことなりといゑとも心は一なり 阿弥陀といふは梵語なり これには無量寿ともいふ 無礙光ともまふし候 梵漢こ   となりといゑとも 心おなしく候也 そも〜覚信坊の事 ことにあわれにおほへ またたふとくもおほへ候 そのゆへ   は 信心たかはすしておはられて候 またたひ〜信心そんちのやういかやうにかとたひ〜まふし候しかは 当時まて   はたかふへくも候はす いよ〜信心のやうはつよくそんするよし候き のほり候しに くにをたちて ひといちとまふ   ししときやみいたして候しかとも 同行たちはかへれなむとまふし候しかとも 死するほとのことならは かへるとも死   し とゝまるとも死し候はむす またやまひはやみ候は かへるともやみ とゝまるともやみ候はむす おなしくはみも   とにてこそおはり候はゝ おわり候はめとそんしてまいりて候也と 御ものかたり候し也 この御信心まことにめてたく   おほへ候 善導和尚の釈の二河の譬喩におもひあはせられて よにめてたくそんし うらやましく候也 おはりのとき  P--851   南無阿弥陀仏 南無無礙光如来 南無不可思議光如来ととなえられて てをくみてしつかにおわられて候しなり またお   くれさきたつためしはあはれになけかしくおほしめされ候とも さきたちて滅度にいたり候ぬれは かならす最初引接の   ちかひをおこして 結縁眷属萌友をみちひくことにて候なれは しかるへくおなし法文の門にいりて候へは 蓮位もたの   もしくおほへ候 またおやとなりことなるも先世のちきりとまふし候へは たのもしくおほしめさるへく候也 このあわ   れさたふとさ まふしつくしかたく候へはとゝめ候ぬ いかにしてか みつからこのことをまふし候へきや くはしくは   なほ〜まふし候へく候 このふみのやうを御まへにてあしくもや候とて よみあけて候へは これにすくへくも候はす   めてたく候とおほせをかふりて候也 ことに覚信坊のところに御なみたをなかさせたまひて候也 よにあわれにおもはせ   たまひて候也]     [十月廿九日]                    [蓮位]    [慶信御坊へ] #214 (14) 自然法爾事 自然といふは 自は をのつからといふ 行者の はからひにあらす 然といふは しからしむと いふこ とはなり しからしむといふは 行者の はからひにあらす 如来の ちかひにて あるかゆへに 法爾と いふ 法爾といふは この如来の 御ちかひ なるかゆへに しからしむるを 法爾といふなり 法爾は  この御ちかひ なりけるゆへに をよす 行者の はからひの なきをもて この法の 徳のゆへに しか P--852 らしむと いふなり すへて ひとの はしめて はからはさるなり このゆへに 義なきを 義とすと  しるへしとなり 自然といふは もとより しからしむると いふことはなり 弥陀仏の 御ちかひの も とより 行者の はからひに あらすして 南無阿弥陀仏と たのませたまひて むかへんと はからはせ たまひたるによりて 行者の よからんとも あしからんとも おもはぬを 自然とは まふすそと きゝ てさふらふ ちかひのやうは 無上仏に ならしめんと ちかひたまへるなり 無上仏とまふすは かたち も なくまします かたちも ましまさぬゆへに 自然とは まふすなり かたちましますと しめすとき には 無上涅槃とは まふさす かたちも ましまさぬやうを しらせんとて はしめて 弥陀仏と まふ すとそ きゝならひて さふらふ 弥陀仏は 自然のやうを しらせん れうなり この道理を こゝろえ つる のちには この自然のことは つねに さたすへきには あらさるなり つねに 自然を さたせは 義なきを 義とすと いふことは なを義のあるに なるへし これは 仏智の不思議にて あるなるへし    正嘉弐年十二月十四日                            愚禿親鸞{八十六歳} #215 (15) 閏十月一日の御文 たしかにみ候 かくねむはうの御事 かた〜あはれに存候 親鸞はさきたちまいらせ 候はんすらんと まちまいらせてこそ候つるに さきたゝせ給候事 申はかりなく候 かくしんはう ふる P--853 としころは かならす〜さきたちてまたせ給候覧 かならす〜まいりあふへく候へは 申におよはす候 かくねんはうの おほせられて候やう すこしも愚老にかはらすおはしまし候へは かならす〜一ところ へまいりあふへく候 明年の十月のころまてもいきて候はゝ このよの面謁うたかいなく候へし 入道殿の 御こゝろも すこしもかわらせ給はす候へは さきたちまいらせても まちまいらせ候へし 人々の御こゝ ろさし たしかに〜たまはりて候 なにことも〜 いのち候らんほとは申へく候 又おほせをかふる へく候 この御ふみみまいらせ候こそ ことにあはれに候へ 中々申候もおろかなるやうに候 又々追申候 へく候 あなかしこ〜    閏十月廿九日                  親鸞(花押)   たかたの入道殿御返事 #216 (16) なによりも こそことし 老少男女 おほくのひと〜の 死あひて 候らんことこそ あはれに候へ た たし 生死無常のことはり くはしく 如来の ときをかせ おはしまして 候うへは おとろき おほし めす へからす候 まつ 善信か身には 臨終の善悪をは まふさす 信心決定のひとは うたかひなけれ は 正定聚に 住することにて 候なり されはこそ 愚痴無智の人も をはりも めてたく候へ 如来の 御はからひにて 往生するよし ひと〜に まふされ候ける すこしも たかはす候なり としころ を P--854 の〜に 申しさふらひしこと たかはすこそ候へ かまへて 学生沙汰 せさせたまひ さふらはて 往 生を とけさせたまひ さふらふへし 故法然聖人は 浄土宗の人は 愚者になりて 往生すと 候しこと を たしかに うけたまはり 候しうへに ものもおほえぬ あさましき ひと〜の まいりたるを 御 覧しては 往生必定すへしとて ゑませたまひしを みまいらせ さふらひき 文沙汰して さか〜しき ひとの まいりたるをは 往生は いかゝ あらんすらんと たしかに うけたまはりき いまにいたるま て おもひあはせられ 候なり ひと〜に すかされさせ たまはて 御信心 たちろかせ たまはすし て をの〜 御往生 候へきなり たゝし ひとに すかされさせ たまひ 候はすとも 信心の さた まらぬ人は 正定聚に 住したまはすして うかれたまひたる 人なり 乗信房に かやうに 申し候やう を ひと〜にも 申され候へし あなかしこ〜    文応元年十一月十三日                善信{八十八歳}    乗信御房 #217 (17) さては 念仏のあひたの ことによりて ところせきやうに うけたまはり さふらふ かへす〜 こゝ ろ くるしく さふらふ 詮するところ そのところの 縁そつきさせ たまひ さふらふらん 念仏を  さへらるなんと まふさんことに ともかくも なけき おほしめす へからす さふらふ 念仏 とゝめ P--855 ん ひとこそ いかにもなり さふらはめ まふしたまふひとは なにか くるしく さふらふへき 余の ひと〜を 縁として 念仏をひろめんと はからひあはせ たまふこと ゆめ〜 あるへからす さふ らふ そのところに 念仏の ひろまり さふらはんことも 仏天の 御はからひにて さふらふへし 慈 信坊か やう〜に まふし さふらふなるに よりて ひと〜も 御こゝろともの やう〜に なら せたまひ さふらふよし うけたまはり さふらふ かへす〜 不便のことに さふらふ ともかくも  仏天の 御はからひに まかせ まいらせさせ たまふへし そのところの 縁つきて おはしまし さふ らはゝ いつれの ところにても うつらせ たまひ さふらふて おはしますやうに 御はからひ さふ らふへし 慈信坊か まふし さふらふことを たのみ おほしめして これよりは 余の人を 強縁とし て 念仏ひろめよと まふすこと ゆめ〜 まふしたること さふらはす きはまれる ひかことにて  さふらふ この世の ならひにて 念仏を さまたけんことは かねて 仏の ときをかせ たまひて さ ふらへは おとろき おほしめす へからす やう〜に 慈信坊か まふすことを これより まふしさ ふらふと 御こゝろえ さふらふ ゆめ〜 あるへからす さふらふ 法門のやうも あらぬさまに ま ふしなして さふらふなり 御耳に きゝいれらる へからす さふらふ きはまれる ひかことゝもの  きこえさふらふ あさましく さふらふ 入信坊なんとも 不便に おほえ さふらふ 鎌倉に なかゐし て さふらふらん 不便に さふらふ 当時 それも わつらふ へくてそ さても さふらふらん ちか P--856 ら およはす さふらふ 奥郡の ひと〜の 慈信坊に すかされて 信心 みな うかれあふて おは しまし さふらふなること かへす〜 あはれに かなしふ おほえさふらふ これも ひと〜を す かし まふしたるやうに きこえ さふらふこと かへす〜 あさましく おほえ さふらふ それも  日ころ ひと〜の 信の さたまらす さふらひけることの あらはれて きこえさふらふ かへす〜 不便に さふらひけり 慈信坊か まふすことによりて ひと〜の 日ころの信の たちろきあふて お はしまし さふらふも 詮するところは ひと〜の 信心の まこと ならぬことの あらはれて さふ らふ よきことにて さふらふ それを ひと〜は これより まふしたるやうに おほしめし あふて さふらふこそ あさましく さふらへ 日ころ やう〜の 御ふみともを かきもちて おはしまし あ ふてさふらふ 甲斐もなく おほえ さふらふ 唯信鈔 やう〜の 御ふみともは いまは 詮なくなり て さふらふと おほえ さふらふ よく〜 かきもたせ たまひて さふらふ 法門は みな 詮なく なりて さふらふなり 慈信坊に みなしたかひて めてたき 御ふみともは すてさせ たまひあふて  さふらふと きこえ さふらふこそ 詮なく あはれに おほえさふらへ よく〜 唯信鈔 後世物語  なんとを 御覧あるへく さふらふ 年ころ 信ありと おほせられ あふて さふらひける ひと〜は みな そらことにて さふらひけりと きこえさふらふ あさましく さふらふ〜 なにことも〜 ま た〜 まふし さふらふへし P--857    正月九日                         親鸞    真浄御坊 #218 (18) なにことよりは 如来の御本願の ひろまらせ たまひて さふらふこと かへす〜 めてたく うれし く さふらふ そのことに をの〜 ところ〜に われはと いふことを おもふて あらそふこと  ゆめ〜 あるへからす さふらふ 京にも 一念多念なんと まふす あらそふことの おほく さふら ふやうに あること さら〜 さふらふ へからす たゝ 詮するところは 唯信鈔 後世物語 自力他 力 この御文ともを よく〜 つねにみて その御こゝろに たかへす おはしますへし いつかたの  ひと〜にも このこゝろを おほせられ さふらふへし なを おほつかなき ことあらは 今日まて  いきて さふらへは わさとも これへ たつね たまふへし また便にも おほせたまふへし 鹿島行方 そのならひの ひと〜にも このこゝろを よく〜 おほせらるへし 一念多念の あらそひ なんと のやうに 詮なきこと 論しことをのみ まふしあはれて さふらふそかし よく〜 つゝしむへき こ となり あなかしこ〜  かやうのことを こゝろえぬ ひと〜は そのことゝなきことを まふしあはれて さふらふそ よく  〜 つゝしみ たまふへし かへす〜 P--858    二月三日                       親鸞 #219 (19) 諸仏称名の 願とまふし 諸仏咨嗟の 願とまふし さふらふなるは 十方衆生を すゝめんためと きこ えたり また 十方衆生の 疑心を とゝめん料と きこえて さふらふ 弥陀経の 十方諸仏の 証誠の やうにて きこえたり 詮するところは 方便の 御誓願と 信しまいらせ さふらふ 念仏往生の願は  如来の 往相廻向の 正業正因なりと みえて さふらふ まことの信心 あるひとは 等正覚の 弥勒と ひとしけれは 如来と ひとしとも 諸仏の ほめさせ たまひ たりとこそ きこえて さふらへ また 弥陀の本願を 信しさふらひぬる うへには 義なきを 義とすとこそ 大師聖人の おほせにて さふら へ かやうに 義のさふらふらん かきりは 他力にはあらす 自力なりと きこえて さふらふ また  他力とまふすは 仏智不思議にて さふらふなる ときに 煩悩具足の 凡夫の 無上覚の さとりを え さふらふ なる ことをは 仏と 仏のみ 御はからひなり さらに 行者の はからひに あらすさふら ふ しかれは 義なきを 義とすと さふらふなり 義とまふすことは 自力のひとの はからひを まふ すなり 他力には しかれは 義なきを 義とすと さふらふなり このひと〜の おほせの やうは  これには つや〜と しらぬ ことにて さふらへは とかく まふすへきに あらす さふらふ また 来の字は 衆生利益の ためには きたるとまふす 方便なり さとりを ひらきては かへるとまふす  P--859 ときに したかひて きたるとも かへるとも まふすと みえて さふらふ なにことも〜 また〜 まふすへく さふらふ    二月九日                        親鸞    慶西御坊 御返事 #220 (20)   [無礙光如来の慈悲光明に摂取せられまいらせ候ゆへ名号をとなへつゝ不退のくらゐにいりさたまり候なむには このみの   ために摂取不捨をはしめてたつぬへきにはあらすとおほへられて候 そのうへ 華厳経に聞此法歓喜信心無疑者 速成無   上道与諸如来等とおほせられて候 また第十七の願に 十方無量の諸仏にほめとなえられむとおほせられて候 また願成   就の文に十方恒沙の諸仏とおほせられて候は 信心の人とこゝろえて候 この人はすなわちこのよより如来とひとしとお   ほへられ候 このほかは凡夫のはからひおはもちゐす候なり このやうをこまかにおほせかふり給へく候 恐々謹言]     [二月十二日]                    [浄信] 如来の誓願を 信する心の さたまる時と 申は 摂取不捨の 利益に あつかるゆへに 不退の位に さ たまると 御こゝろえ 候へし 真実信心の さたまると申も 金剛信心の さたまると 申も 摂取不捨 のゆへに 申なり されはこそ 無上覚に いたるへき 心のおこると 申なり これを 不退のくらゐと P--860 も 正定聚のくらゐに いるとも申 等正覚に いたるとも 申也 このこゝろの さたまるを 十方諸仏 の よろこひて 諸仏の 御こゝろに ひとしと ほめたまふなり このゆへに まことの 信心の人をは 諸仏と ひとしと 申なり 又 補処の弥勒と おなしとも 申也 このよにて 真実信心の人を まほら せ 給へはこそ 阿弥陀経には 十方恒沙の諸仏 護念すとは 申事にて候へ 安楽浄土へ 往生してのち は まもりたまふと 申ことにては 候はす 娑婆世界ゐたるほと 護念すと 申事也 信心まことなる  人のこゝろを 十方恒沙の如来の ほめたまへは 仏とひとしとは 申事也 又 他力と 申ことは 義な きを 義とすと 申なり 義と申ことは 行者の おの〜の はからふ事を 義とは 申也 如来の誓願 は 不可思議に ましますゆへに 仏と仏との 御はからいなり 凡夫の はからいにあらす 補処の 弥 勒菩薩を はしめとして 仏智の不思議を はからうへき 人は候はす しかれは 如来の 誓願には 義 なきを 義とすとは 大師聖人の 仰に候き このこゝろのほかには 往生に いるへきこと 候はすと  こゝろえて まかりすき候へは 人の 仰ことには いらぬものにて 候也 諸事恐々謹言                    「親鸞(花押)」 #221 (21) 安楽浄土に いりはつれは すなはち 大涅槃を さとるとも また 無上覚を さとるとも 滅度に い たるとも まふすは 御名こそ かはりたる やうなれとも これみな 法身とまふす 仏のさとりを ひ P--861 らくへき 正因に 弥陀仏の 御ちかひを 法蔵菩薩 われらに 廻向したまへるを 往相の廻向と まふ すなり この廻向せさせ たまへる願を 念仏往生の願とは まふすなり この念仏往生の願を 一向に信 して ふたこゝろなきを 一向専修とは まふすなり 如来二種の 廻向と まふすことは この二種の  廻向の願を信し ふたこゝろなきを 真実の信心と まふす この真実の信心の おこることは 釈迦弥陀 の二尊の 御はからひより おこりたりと しらせたまふへし あなかしこ〜  #222 (22) いやおむなのこと ふみかきて まいらせられ候なり いまた ゐところもなくて わひゐて候なり あさ ましく〜 もてあつかいて いかにすへしとも なくて候なり あなかしこ    三月廿八日                    (花押)       わ□こせんへ                    しんらん #223 (23) 誓願名号同一事 御ふみ くはしく うけたまはり候ぬ さては この御不審 しかるへしとも おほえす候 そのゆへは  誓願名号と まふして かはりたること候はす 誓願をはなれたる 名号も候はす 名号をはなれたる 誓 P--862 願も候はす候 かくまふし さふらふも はからひにて候なり たゝ誓願を 不思議と信し また名号を  不思議と 一念信し となへつるうへは 何条わかはからひを いたすへき きゝわけ しりわくるなと  わつらはしくは おほせられ さふらふやらん これみな ひかことにて候なり たゝ不思議と 信しつる うへは とかく 御はからひ あるへからす候 往生の業には わたくしの はからひは あるましく候な り あなかしこ〜 たゝ如来に まかせまいらせ おはしますへく さふらふ あなかしこ〜    五月五日                        親鸞    教名御房 [端書云]  このふみをもて ひと〜にも みせまいらせさせ たまふへく候 他力には 義なきを 義とすとは   まふし 候なり #224 (24) 仏智不思議と可信事 御ふみ くはしく うけたまはり候ぬ さては 御法門の 御不審に 一念発起のとき 無礙の心光に 摂 護せられ まいらせ候ゆへに つねに 浄土の業因 決定すと おほせられ候 これめてたく候 かくめて P--863 たくは おほせ候へとも これみな わたくしの 御はからひに なりぬと おほえ候 たゝ不思議と 信 せさせ たまひ候ぬるうへは わつらはしき はからひ あるへからす候 また ある人の 候なること 出世のこゝろおほく 浄土の業因 すくなしと 候なるは こゝろえかたく候 出世と候も 浄土の業因と 候も みなひとつにて候なり すへてこれ なましゐなる 御はからひと存候 仏智不思議と 信せさせた まひ 候なは 別に わつらはしく とかくの 御はからひ あるへからす候 たゝ ひと〜の とかく まふし 候はんことをは 御不審 あるへからす候 たゝ如来の誓願に まかせまいらせ たまふへく 候 とかくの 御はからひ あるへからす 候なり あなかしこ〜    五月五日                      親鸞[御判]    浄信御房へ [袖書云]  他力と 申し候は とかくの はからひなきを 申候なり #225 (25) 六月一日の御文 くわしく みさふらひぬ さては 鎌倉にての 御うたへのやうは おろ〜 うけたま はりて さふらふ この御文に たかはす うけたまはりて さふらひしに 別のことは よもさふらはし P--864 と おもひさふらひしに 御くたり うれしく さふらふ おほかたは このうたへのやうは 御身ひとり の ことには あらすさふらふ すへて 浄土の 念仏者の ことなり このやうは 故聖人の御とき こ の身ともの やう〜に まふされ さふらひし ことなり ことも あたらしき うたへにて さふらふ なり 性信坊ひとりの 沙汰あるへき ことにはあらす 念仏まふさんひとは みな おなしこゝろに 御 沙汰 あるへき ことなり 御身を わらひ まふすへき ことには あらすさふらふへし 念仏者の も のにこゝろえぬは 性信坊のとかに まふしなされんは きはまれる ひかことに さふらふへし 念仏ま ふさんひとは 性信坊の かたうとにこそなり あはせたまふへけれ 母姉妹なんと やう〜に まふさ るゝことは ふることにて さふらふ されはとて 念仏を とゝめられ さふらひしか よにくせことの おこり さふらひしかは それにつけても 念仏を ふかくたのみて 世のいのりに こゝろに いれて  まふしあはせ たまふへしとそ おほえさふらふ 御文のやう おほかたの陳状 よく御はからひとも さ ふらひけり うれしく さふらふ 詮しさふらふ ところは 御身にかきらす 念仏まふさんひと〜は  わか御身の料は おほしめさすとも 朝家の御ため 国民のために 念仏をまふし あはせたまひ さふら はゝ めてたふ さふらふへし 往生を 不定に おほしめさんひとは まつ わか身の 往生を おほし めして 御念仏さふらふへし わか身の 往生一定と おほしめさんひとは 仏の御恩を おほしめさんに 御報恩のために 御念仏 こゝろにいれて まふして 世のなか 安穏なれ 仏法ひろまれと おほし め P--865 すへしとそ おほえさふらふ よく〜 御按 さふらふへし このほかは 別の御はからひ あるへしと は おほえす さふらふ なを〜 とく御くたりの さふらふこそ うれしふ さふらへ よく〜 御 こゝろに いれて 往生一定と おもひ さためられ さふらひなは 仏の御恩を おほしめさんには こ と事は さふらふ へからす 御念仏を こゝろにいれて まふさせ たまふへしと おほえさふらふ あ なかしこ〜    七月九日                        親鸞    性信御坊 #226 (26) 尋仰られ候 念仏の不審の事 念仏往生と 信する人は 辺地の往生とて きらはれ 候らんこと おほか た こゝろえかたく候 そのゆへは 弥陀の本願と まふすは 名号を となへんものをは 極楽へ むか へんと ちかはせ たまひたるを ふかく信して となふるか めてたき ことにて候なり 信心ありとも 名号を となへさらんは 詮なく候 また 一向名号を となふとも 信心あさくは 往生しかたく さふ らふ されは 念仏往生と ふかく信して しかも 名号を となへんするは うたかひなき 報土の 往 生にて あるへく さふらふなり 詮するところ 名号を となふと いふとも 他力本願を 信せさらん は 辺地に むまるへし 本願他力を ふかく信せん ともからは なにことにかは 辺地の 往生にて候 P--866 へき このやうを よく〜 御こゝろえ候て 御念仏候へし この身は いまは としきはまりて さふ らへは さためて さきたちて 往生し 候はんすれは 浄土にて かならす〜 まちまいらせ さふら ふへし あなかしこ〜    七月十三日                       親鸞    有阿弥陀仏[御返事] #227 (27) まつ よろつの 仏菩薩を かろしめ まいらせ よろつの 神祇冥道を あなつり すてたてまつると  まふすこと このこと ゆめ〜 なきことなり 世々生々に 無量無辺の 諸仏菩薩の 利益によりて  よろつの善を 修行せしかとも 自力にては 生死をいてす ありしゆへに 曠劫多生のあひた 諸仏菩薩 の 御すゝめに よりて いま まうあひかたき 弥陀の 御ちかひに あひまいらせて さふらふ 御恩 を しらすして よろつの 仏菩薩を あたに まふさんは ふかき 御恩を しらす さふらふへし 仏 法を ふかく信する ひとをは 天地に おはします よろつのかみは かけの かたちに そへるか こ とくして まもらせたまふ ことにて さふらへは 念仏を 信したる 身にて 天地のかみを すてまふ さんと おもふこと ゆめ〜 なきことなり 神祇等たにも すてられ たまはす いかに いはんや  よろつの 仏菩薩を あたにもまふし をろかにおもひ まいらせ さふらふへしや よろつの仏を をろ P--867 かに まふさは 念仏信せす 弥陀の 御名を となへぬ 身にてこそ さふらはんすれ 詮するところは そらことをまふし ひかことを ことにふれて 念仏の ひと〜に おほせられつけて 念仏を とゝめ んとする ところの 領家地頭名主の 御はからひともの さふらふらんこと よく〜 やうあるへき  ことなり そのゆへは 釈迦如来の みことには 念仏するひとを そしるものをは 名無眼人ととき 名 無耳人と おほせ をかれたる ことに さふらふ 善導和尚は 五濁増時多疑謗 道俗相嫌不用聞 見有 修行起瞋毒 方便破壊競生怨と たしかに 釈しをかせ たまひたり この世の ならひにて 念仏を さ またけんひとは そのところの 領家地頭名主の やうある ことにてこそ さふらはめ とかく まふす へきに あらす 念仏せん ひと〜は かのさまたけを なさんひとをは あはれみをなし 不便に お もふて 念仏をも ねんころに まふして さまたけ なさんを たすけさせ たまふへしとこそ ふるき ひとは まふされ さふらひしか よく〜 御たつね あるへき ことなり つきに 念仏せさせたまふ ひと〜のこと 弥陀の御ちかひは 煩悩具足の ひとのためなりと 信せられ さふらふは めてたき  やうなり たゝし わるきものゝ ためなりとて ことさらに ひかことを こゝろにも おもひ 身にも 口にも まふすへしとは 浄土宗に まふすこと ならねは ひと〜にも かたること さふらはす お ほかたは 煩悩具足の 身にて こゝろをも とゝめかたく さふらひなから 往生を うたかはすせんと おほし めすへしとこそ 師も 善知識も まふすことにて さふらふに かゝる わるき身なれは ひか P--868 ことを ことさらに このみて 念仏の ひと〜の さはりとなり 師のためにも 善知識の ためにも とかと なさせ たまふへしと まふすことは ゆめ〜 なきことなり 弥陀の御ちかひに まうあひか たくして あひまいらせて 仏恩を報し まいらせんとこそ おほし めすへきに 念仏を とゝめ らる ゝことに 沙汰し なされて さふらふらんこそ かへす〜 こゝろえす さふらふ あさましきことに さふらふ ひと〜の ひかさまに 御こゝろえともの さふらふゆへ あるへくもなき こととも きこ えさふらふ まふす はかりなく さふらふ たゝし 念仏のひと ひかことを まふし さふらはゝ そ の身 ひとりこそ 地獄にもおち 天魔ともなり さふらはめ よろつの 念仏者の とかに なるへしと は おほえす さふらふ よく〜 御はからひとも さふらふへし なを〜 念仏せさせ たまふひと 〜 よく〜 この文を 御覧し とかせ たまふへし あなかしこ〜    九月二日                      親鸞    念仏人々御中 #228 (28) ふみかきて まいらせ さふらふ このふみを ひと〜にも よみて きかせ たまふへし 遠江の 尼 御前の 御こゝろにいれて 御沙汰 さふらふらん かへす〜 めてたく あはれに おほえ さふらふ よく〜 京より よろこひ まふすよしを まふし たまふへし 信願坊か まふすやう かへす〜  P--869 不便のことなり わるき 身なれはとて ことさらに ひかことを このみて 師のため 善知識の ため に あしきことを 沙汰し 念仏の ひと〜のために とかと なるへきことを しらすは 仏恩をしら す よく〜 はからひ たまふへし また ものに くるふて 死にけん ひと〜のことを もちて  信願坊か ことを よしあしと まふすへきには あらす 念仏するひとの 死にやうも 身より やまひ を するひとは 往生のやうを まふす へからす こゝろより やまひを するひとは 天魔ともなり  地獄にも おつることにて さふらふへし こゝろより おこる やまひと 身よりおこる やまひとは  かはるへけれは こゝろより おこりて 死ぬるひとの ことを よく〜 御はからひ さふらふへし  信願坊か まふすやうは 凡夫の ならひなれは わるきこそ 本なれはとて おもふ ましきことを こ のみ 身にも すましきことをし 口にも いふましきことを まふす へきやうに まふされ さふらふ こそ 信願坊か まふしやうとは こゝろえす さふらふ 往生に さはり なけれはとて ひかことを  このむへしとは まふしたること さふらはす かへす〜 こゝろえす おほえ さふらふ 詮するとこ ろ ひかこと まふさんひとは その身 ひとりこそ ともかくも なりさふらはめ すへて よろつの  念仏者の さまたけと なるへしとは おほえす さふらふ また 念仏を とゝめんひとは そのひと  はかりこそ いかにも なりさふらはめ よろつの 念仏するひとの とかと なるへしとは おほえす  さふらふ 五濁増時多疑謗 道俗相嫌不用聞 見有修行起瞋毒 方便破壊競生怨と まのあたり 善導の  P--870 御をしへ さふらふそかし 釈迦如来は 名無眼人 名無耳人と とかせたまひて さふらふそかし かや うなるひとにて 念仏をもとゝめ 念仏者をも にくみなんと することにても さふらふらん それは  かのひとを にくますして 念仏を ひと〜 まふして たすけんと おもひあはせ たまへとこそ お ほえさふらへ あなかしこ〜    九月二日                       親鸞    慈信坊 御返事  入信坊 真浄坊 法信坊にも このふみを よみきかせ たまふへし かへす〜 不便のことに さふ  らふ 性信坊には 春のほりて さふらひしに よく〜 まふして さふらふ くけとのにも よく〜  よろこひまふし たまふへし このひと〜の ひかことを まふしあふて さふらへはとて 道理をは  うしなはれ さふらはしとこそ おほえ さふらへ 世間のことにも さることの さふらふそかし 領  家地頭名主の ひかことすれはとて 百姓を まとはすことは さふらはぬそかし 仏法をは やふるひ  となし 仏法者の やふるに たとへたるには 師子の 身中の虫の しゝをくらふか ことしと さふ  らへは 念仏者をは 仏法者の やふり さまたけ さふらふなり よく〜 こゝろえ たまふへし   なを〜 御ふみには まふし つくすへくも さふらはす P--871 #229 (29) 武蔵よりとて しむの入道とのとまうす人と 正念房とまうす人の王番にのほらせたまひてさふらふとてお はしましてさふらふ みまいらせてさふらふ 御念仏の御こゝろさしおはしますとさふらへは ことにうれ しうめてたふおほえさふらふ 御すゝめとさふらふ かへす〜うれしうあはれにさふらふ なを〜 よ く〜すゝめまいらせて 信心かはらぬ様に人々にまうさせたまふへし 如来の御ちかひのうへに 釈尊の 御ことなり また十方恒沙の諸仏の御証誠なり 信心はかはらしとおもひさふらへとも 様々にかはりあは せたまひてさふらふこと ことになけきおもひさふらふ よく〜すゝめまいらせたまふへくさふらふ あ なかしこ〜    九月七日                       親鸞   性信御房  念仏のあひたのことゆへに 御沙汰ともの様々にきこえさふらふに こゝろやすくならせたまひてさふら  ふと この人々の御ものかたりさふらへは ことにめてたふ うれしうさふらふ なにことも〜 まう  しつくしかたくさふらふ いのちさふらはゝ また〜まうしさふらふへくさふらふ #230 (30) たつね おほせられて候 摂取不捨の事は 般舟三昧行道往生讃と申に おほせられて候を みまいらせ候 へは 釈迦如来 弥陀仏 われらか 慈悲の父母にて さま〜の 方便にて 我等か 無上信心をは ひ P--872 らきおこさせ 給と候へは まことの信心の さたまる事は 釈迦弥陀の 御はからいと みえて候 往生 の心 うたかいなく なり候は 摂取せられ まいらするゆへと みえて候 摂取のうへには ともかくも 行者の はからい あるへからす候 浄土へ 往生するまては 不退のくらゐにて おはしまし 候へは  正定聚の くらゐと なつけて おはします 事にて 候なり まことの 信心をは 釈迦如来 弥陀如来 二尊の 御はからいにて 発起せしめ 給候と みえて候へは 信心の さたまると 申は 摂取に あつ かる 時にて 候なり そのゝちは 正定聚の くらゐにて まことに 浄土へ むまるゝまては 候へし と みえ候なり ともかくも 行者の はからひを ちりはかりも あるへからす 候へはこそ 他力と申 事にて候へ あなかしこ〜    十月六日                     親鸞(花押)   しのふの御房の御返事 #231 (31) ひと〜の おほせられて さふらふ 十二光仏の 御ことのやう かきしるして くたしまいらせ さふ らふ くはしく かきまいらせ さふらふ へきやうも さふらはす おろ〜 かきしるして さふらふ 詮するところは 無礙光仏と まふし まいらせ さふらふことを 本とせさせ たまふへく さふらふ  無礙光仏は よろつの ものゝ あさましき わるきことには さはりなく たすけさせ たまはん料に  P--873 無礙光仏と まふすと しらせ たまふへく さふらふ あなかしこ〜    十月廿一日                       親鸞    唯信御坊 御返事 #232 (32) たつね おほせられて 候事 返々 めてたう候 まことの信心を えたる人は すてに 仏にならせ給へ き 御みとなりて おはしますゆへに 如来と ひとしき人と 経にとかれ 候なり 弥勒は いまた 仏 になり たまはねとも このたひ かならす〜 仏になり たまふへきによりて みろくをは すてに  弥勒仏と 申候なり その定に 真実信心を えたる人をは 如来と ひとしと おほせられて 候也 又 承信房の 弥勒と ひとしと 候も ひか事には 候はねとも 他力によりて 信をえて よろこふこゝろ は 如来とひとしと 候を 自力なりと 候覧は いますこし 承信房の 御こゝろのそこの ゆきつかぬ やうに きこへ候こそ よく〜御あん候へくや 候覧 自力のこゝろにて わかみは 如来とひとしと  候らんは まことに あしう候へし 他力の 信心のゆへに 浄信房の よろこはせ 給候らんは なにか は 自力にて 候へき よく〜御はからい 候へし このやうは この人々に くはしう 申て 候 承 信の御房 といまいらせさせ 給へし あなかしこ〜    十月廿一日                      親鸞 P--874   浄信御房御返事 #233 (33) 九月廿七日の 御ふみ くはしく みさふらひぬ さては 御こゝろさしの 銭伍貫文 十一月九日に た まはりて さふらふ さては ゐなかの ひと〜 みな としころ 念仏せしは いたつら ことにて  ありけりとて かた〜 ひと〜 やう〜に まふすなる ことこそ かへす〜 不便のことに き こえ さふらへ やう〜の ふみともを かきて もてるを いかに みなして さふらふやらん かへ す〜 おほつかなく さふらふ 慈信坊の くたりて わかきゝたる 法文こそ まことにてはあれ ひ ころの 念仏は みな いたつらことなりと さふらへはとて おほふの 中太郎の かたのひとは 九十 なん人とかや みな 慈信坊のかたへとて 中太郎入道を すてたるとかや きゝさふらふ いかなる や うにて さやうには さふらふそ 詮するところ 信心の さたまら さりけると きゝさふらふ いかや うなる ことにて さほとに おほくの ひと〜の たちろき さふらふらん 不便のやうと きゝさふ らふ またかやうの きこえなんと さふらへは そらことも おほく さふらふへし また親鸞も 偏頗 あるものと きゝさふらへは ちからを つくして 唯信鈔 後世物語 自力他力の文の こゝろとも 二 河の 譬喩なんと かきて かた〜へ ひと〜に くたして さふらふも みな そらことになりて  さふらふと きこえ さふらふは いかやうに すゝめられ たるやらん 不可思議のことゝ きゝさふら P--875 ふこそ 不便にさふらへ よく〜 きかせ たまふへし あなかしこ〜    十一月九日                      親鸞    慈信御坊  真仏坊 性信坊 入信坊 このひと〜のこと うけたまはり さふらふ かへす〜 なけきおほえ   さふらへとも ちから およはす さふらふ また 余のひと〜の おなし こゝろならす さふらふ  らんも ちから およはす さふらふ ひと〜の おなし こゝろならす さふらへは とかく まふ  すに およはす いまは ひとのうへも まふすへきに あらすさふらふ よく〜 こゝろえ たまふ  へし                                親鸞    慈信御坊 #234 (34)  [或人云]  [往生の業因は一念発起信心のとき 無礙の心光に摂護せられまいらせ候ぬれは同一也 このゆへに不審なし このゆへに  はしめてまた信不信を論したつね申へきにあらすとなり このゆへに他力なり 義なきかなかの義なり たゝ無明なるこ  とおほはるゝ煩悩はかりとなり 恐々謹言] P--876    [十一月一日]                               [専信上] おほせ候ところの往生の業因は 真実信心をうるとき摂取不捨にあつかるとおもへは かならす〜如来の 誓願に住すと悲願にみえたり 設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚とちかひ給へり 正 定聚に信心の人は住し給へりとおほしめし候なは 行者のはからいのなきゆへに 義なきを義とすと他力お は申なり 善とも悪とも 浄とも穢とも 行者のはからひなきみとならせ給て候へはこそ 義なきを義とす とは申ことにて候へ 十七の願にわかなをとなえられむとちかひ給て 十八の願に 信心まことならは も しむまれすは仏にならしとちかひ給へり 十七十八の悲願みなまことならは 正定聚の願はせむなく候へき か 補処の弥勒におなしくらゐに信心の人はならせたまふゆへに摂取不捨とはさためられて候へ このゆへ に他力と申すは 行者のはからいのちりはかりもいらぬなり かるかゆへに義なきを義とすと申なり この ほかにまたまふすへきことなし たゝ仏にまかせまいらせ給へと大師聖人のみことにて候へ    十一月十八日                      親鸞   専信御坊 御報 #235 (35)                          「御返事(花押)」 P--877 ひたちの人々の御中へ このふみをみせさせ給へ すこしもかはらす候 このふみにすくへからす候へは  このふみをくにの人々 おなしこゝろに候はんすらん あなかしこ〜    十一月十一日                    (花押)    いまこせんのはゝに #236 (36) このいまこせんのはゝの たのむかたもなく そらうをもちて候はゝこそ ゆつりもし候はめ せんしに候 なは くにの人々 いとをしふせさせたまふへく候 このふみをかく ひたちの人々をたのみまいらせて候 へは 申をきてあはれみあはせたまふへく候 このふみをこらんあるへく候 このそくしやうはうも すく へきやうもなきものにて候へは 申おくへきやうも候はす みのかなはす わひしう候ことは たゝこのこ と おなしことにて候 ときにこのそくしやうはうにも 申をかす候 ひたちの人々はかりそ このものと もをも 御あはれみ あはれ候へからん いとをしう 人々あはれみおほしめすへし このふみにて 人々 おなし御こゝろに候へし あなかしこ〜    十一月十二日                          せんしん(花押)   ひたちの人々の御中へ P--878    ひた□の人々の御□へ                (花押) #237 (37) なによりも 聖教の をしへをもしらす また 浄土宗の まことの そこをも しらすして 不可思議の 放逸無慙の ものとものなかに 悪は おもふさまに ふるまふへしと おほせられ さふらふなるこそ  かへす〜 あるへくも さふらはす 北の郡にありし 善証房と いひしものに つゐに あひむつるゝ ことなくて やみにしをは みさりけるにや 凡夫なれはとて なにことも おもふさまならは ぬすみを もし 人をも ころしなんと すへきかは もと ぬすみこゝろ あらん人も 極楽をねかひ 念仏をまふ す ほとのことに なりなは もと ひかうたる こゝろをも おもひ なをしてこそ あるへきに その しるしも なからん ひと〜に 悪くるしからすと いふこと ゆめ〜 あるへからす さふらふ 煩 悩に くるはされて おもはさるほかに すましきことをも ふるまひ いふましき ことをもいひ おも ふましき ことをも おもふにてこそあれ さはらぬ ことなれはとて ひとのためにも はらくろく す ましき ことをもし いふましき ことをもいはゝ 煩悩に くるはされたる 儀にはあらて わさと す ましき ことをもせは かへす〜 あるましきことなり 鹿嶋なめかたの ひと〜の あしからん こ とをは いひとゝめ その辺の 人々の ことに ひかみたる ことをは 制したまはゝこそ この辺より P--879 いてきたる しるしにては さふらはめ ふるまひは なにとも こゝろに まかせよと いひつると さ ふらふらん あさましき ことにさふらふ この世の わろきをもすて あさましき ことをも せさらん こそ 世をいとひ 念仏まふす ことにては さふらへ としころ 念仏する ひとなんとの ひとのため に あしきことをし また いひもせは 世をいとふ しるしもなし されは 善導の 御をしへには 悪 をこのむ人をは うやまひて とをさかれとこそ 至誠心の なかには をしへをかせ おはしまして さ ふらへ いつか わかこゝろの わろきにまかせて ふるまへとは候 おほかた 経釈をもしらす 如来の 御ことをも しらぬ身に ゆめ〜 その沙汰 あるへくも さふらはす あなかしこ〜    十一月廿四日                     親鸞 #238 (38) 他力の なかには 自力と まふすことは さふらふと きゝ候ひき 他力のなかに また他力と まふす ことは きゝ候はす 他力のなかに 自力と まふすことは 雑行雑修 定心念仏を こゝろかけられて  さふらふ ひと〜は 他力のなかの 自力の ひと〜なり 他力のなかに また他力と まふすことは うけたまはり さふらはす なにことも 専信房の しはらくも ゐたらんと さふらへは そのとき ま ふしさふらふへし 穴賢々々 銭弐拾貫文慥々給候穴賢々々 P--880    十一月廿五日                      親鸞 #239 (39) 御たつね さふらふことは 弥陀他力の 廻向の 誓願に あひたてまつりて 真実の信心を たまはりて よろこふ こゝろの さたまるとき 摂取して すてられ まいらせさるゆへに 金剛心に なるときを  正定聚の くらゐに 住すともまふす 弥勒菩薩と おなしくらゐに なるとも とかれて さふらふめり 弥勒と ひとつくらゐに なるゆへに 信心 まことなるひとを 仏に ひとしともまふす また 諸仏の 真実信心を えてよろこふをは まことに よろこひて われと ひとしき ものなりと とかせ たまひ て さふらふなり 大経には 釈尊の みことはに 見敬得大慶 則我善親友と よろこはせ たまひさふ らへは 信心を えたるひとは 諸仏と ひとしと とかれて さふらふめり また弥勒をは すてに 仏 にならせ たまはんこと あるへきに ならせたまひて さふらへはとて 弥勒仏と まふすなり しかれ は すてに 他力の信を えたるひとをも 仏とひとしと まふすへしと みえたり 御うたかひ あるへ からす さふらふ 御同行の 臨終を 期してと おほせられ さふらふらんは ちからおよはぬ ことな り 信心まことに ならせたまひて さふらふひとは 誓願の利益にて さふらふうへに 摂取して すて すと さふらへは 来迎臨終を 期せさせ たまふへからすとこそ おほえ さふらへ いまた 信心 さ たまらさらん ひとは 臨終をも期し 来迎をも またせ たまふへし この御ふみぬしの 御名は 随信 P--881 房と おほせられ さふらはゝ めてたく さふらふへし この御ふみの かきやう めてたくさふらふ  御同行の おほせられやうは こゝろえす さふらふ それをは ちから およはす さふらふ あなかし こ〜    十一月廿六日                      親鸞    随信御房 #240 (40) このゑん仏はう くたられ候 こゝろさしのふかく候ゆへに ぬしなとにもしられ申さすして のほられて 候そ こゝろにいれて ぬしなとにも おほせられ候へく候 この十日のよ せうまうにあふて候 この御 はう よく〜たすね候て候なり こゝろさしありかたきやうに候そ さためてこのやうは申され候はんす らん よく〜きかせ給へく候 なにことも〜 いそかしさに くはしう申さす候 あなかしこ〜    十二月十五日                  (花押)   真仏御房へ #241 (41) 護念坊の たよりに 教忍御坊より 銭二百文 御こゝろさしのもの たまはりて さふらふ さきに 念 仏の すゝめのもの かた〜の 御なかよりとて たしかに たまはりて さふらひき ひと〜に よ P--882 ろこひ まふさせ たまふへく さふらふ この御返事にて おなし 御こゝろに まふさせ たまふへく さふらふ さては この御たつね さふらふことは まことに よき 御うたかひともにて さふらふへし まつ 一念にて 往生の業因は たれりとまふし さふらふは まことに さるへき ことにて さふらふ へし されはとて 一念のほかに 念仏を まふすましき ことには さふらはす そのやうは 唯信鈔に くはしく さふらふ よく〜 御覧さふらふへし 一念のほかに あまるところの 念仏は 十方の衆生 に 廻向すへしと さふらふも さるへき ことにて さふらふへし 十方の衆生に 廻向すれはとて 二 念三念せんは 往生に あしきことゝ おほしめされ さふらはゝ ひかことにて さふらふへし 念仏往 生の 本願とこそ おほせられて さふらへは おほく まふさんも 一念一称も 往生すへしとこそ う けたまはりて さふらへ かならす 一念はかりにて 往生すといひて 多念をせんは 往生すましきと  まふすことは ゆめ〜 あるましき ことなり 唯信鈔を よく〜 御覧さふらふへし また 有念無 念と まふすことは 他力の 法門には あらぬことにて さふらふ 聖道門に まふす ことにて さふ らふなり みな 自力聖道の 法文なり 阿弥陀如来の 選択本願念仏は 有念の義にもあらす 無念の義 にも あらすと まふし さふらふなり いかなるひと まふし さふらふとも ゆめ〜 もちゐさせ  たまふ へからす さふらふ 聖道に まふすことを あしさまに きゝなして 浄土宗に まふすにてそ さふらふらん さら〜 ゆめ〜 もちゐさせ たまふましく さふらふ また 慶喜とまふし さふら P--883 ふことは 他力の信心をえて 往生を 一定してむすと よろこふ こゝろを まふすなり 常陸国中の  念仏者の なかに 有念無念の 念仏沙汰の きこえさふらふは ひかことに さふらふと まふし さふ らひにき たゝ 詮するところは 他力のやうは 行者の はからひにては あらす さふらへは 有念に あらす 無念にあらすと まふすことを あしふ きゝなして 有念無念なんと まふし さふらひけると おほえさふらふ 弥陀の 選択本願は 行者の はからひの さふらはねはこそ ひとへに 他力とは ま ふすことにて さふらへ 一念こそよけれ 多念こそ よけれなんと まふすことも ゆめ〜 あるへか らす さふらふ なを〜 一念のほかに あまるところの 御念仏を 法界衆生に 廻向すと さふらふ は 釈迦 弥陀如来の 御恩を 報しまいらせんとて 十方衆生に 廻向せられ さふらふらんは さるへ く さふらへとも 二念三念 まふして 往生せんひとを ひかことゝは さふらふ へからす よく〜 唯信鈔を 御覧 さふらふへし 念仏往生の 御ちかひなれは 一念十念も 往生は ひかことに あらす と おほしめす へきなり あなかしこ〜    十二月廿六日                      親鸞    教忍御坊 御返事 #242 (42) 宝号経に のたまはく 弥陀の本願は 行にあらす 善にあらす たゝ仏名を たもつなり 名号は これ P--884 善なり 行なり 行といふは 善をするについて いふことはなり 本願は もとより 仏の御約束と こ ゝろえぬるには 善にあらす 行にあらさるなり かるかゆへに 他力とは まふすなり 本願の 名号は 能生する因なり 能生の因といふは すなはち これ父なり 大悲の光明は これ所生の縁なり 所生の縁 といふは すなはち これ母なり #243 (43) くたらせ たまひてのち なにことか さふらふらん この源藤四郎殿に おもはさるに あひまいらせて さふらふ 便のうれしさに まふし さふらふ そのゝち なにことか さふらふ 念仏の うたへのこと しつまりて さふらふよし かた〜より うけたまはり さふらへは うれしふこそ さふらへ いまは よく〜 念仏も ひろまり さふらはん すらんと よろこひ いりて さふらふ これにつけても 御 身の料は いま さたまらせ たまひたり 念仏を 御こゝろに いれて つねに まふして 念仏 そし らん ひと〜 この世 のちの世まての ことを いのりあはせ たまふへく さふらふ 御身ともの料 は 御念仏は いまは なにかは せさせ たまふへき たゝ ひかふたる世の ひと〜を いのり 弥 陀の 御ちかひに いれと おほしめし あはゝ 仏の御恩を 報しまいらせ たまふになり さふらふへ し よく〜 御こゝろに いれて まふしあはせ たまふへく さふらふ 聖人の 廿五日の 御念仏も 詮するところは かやうの 邪見のものを たすけん料にこそ まふしあはせ たまへと まふすことにて P--885 さふらへは よく〜 念仏 そしらんひとを たすかれと おほしめして 念仏しあはせ たまふへく  さふらふ また なにことも 度々 便には まふし さふらひき 源藤四郎殿の便に うれしふて まふ し さふらふ あなかしこ〜 入西御坊の かたへも まふしたふ さふらへとも おなしことなれは  このやうを つたへ たまふへく さふらふ あなかしこ〜                               親鸞   性信御坊へ P--886